16 December 2014

この投稿は UEC Advent Calendar 2014 の記事です。

さて、東京では雪が降り始め、冬もいよいよ本格化してきました。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

今年も残すところあとわずかですね。私は電気通信大学に3年弱の間在籍しておりますが、入学したときから年々大学生活が楽しくなっているような気がします。2014年も良い年でした。

3年生からは学科の中でコースに分かれ、より専門的な授業を受けています。計算機科学という分野で学んでいるのですが、どうやら私の興味は少しずれたところへ向いていることに気づきました。それは数学基礎論という数学の一分野でした。ただし私自身まだ決して詳しくはないので、ここでは主に数学基礎論に興味を持ったきっかけや理由について書いてみます。

集合への興味

2年次、まだコースに分かれる前に「離散数学」という必修の講義がありました。実数のように連続的でない、飛び飛びの=離散的な対象を扱う数学なのですが、講義はその議論の前提知識を備えることから始まりました。それが集合の概念や論理記号のことでした。それまで知っていた数学と違って抽象的で難しい$\cdots$でも面白い$\cdots$?このときはただ漠然と離散数学の講義が面白いと思っていただけなので、自分は離散数学とかグラフ理論に興味があるのだと思い込んでいました。

しかし実際はそういうことではありませんでした。それに気づいたのは3年生になってからですが、今振り返ってみると離散数学の講義と対応した演習科目で気づくべきでした。演習で解いた問題(離散数学というより集合と論理の問題)には証明問題が多かったのですが、私の書く証明はどうやら細かすぎたようでした。院生のTeaching Assistant(に見える助教の先生だったかもしれません)に指摘された記憶があります。ある集合を表す記号と、それらを結ぶ演算記号、そして論理記号を並べた文字列から、集合の定義・記号の定義に従って文字列を置き換えていくと、示したい結論が出てくる。この置き換えのステップが細かすぎたのでしょう。置き換えというと機械的な作業のように聞こえますが、もちろん、既知のいかなる事実からどのような推論を経て結論にたどり着くかという証明のアイデアをひねり出す=問題を解くことには頭を使いますし、それが楽しいのです。ただ、1つ1つのステップを細かく書き下すこともまた、解くことと同等かそれ以上に楽しかったのです。

現代数学の概念は集合の概念だけから構成することができます(と、竹内外史先生の『層・圏・トポス』で読みました)。集合の概念を使って全てを定義しれば、全ての概念は集合に帰着できる!!そこからすべてが始まる!!みたいなことがかっこいいというか、美しいというか、これぞ数学の精神、という感じで感動したのです。この点が現在の興味につながります。また先程の「置き換え」という捉え方も関係していたと思います。

私は離散数学の講義と同時期に、集合と位相に関する講義も受けていました。

微分積分学を構築するための大前提として、実数の連続性があります。微分積分学では公理として扱いますが、19世紀の数学者リヒャルト・デデキントはこれを集合(と一つの公理)を使った切断という概念によって示しました。この話が講義で出てきたことがきっかけで、デデキントの『数について』を読んで集合(公理的集合論)への興味が深まりました。

数学基礎論の立場

数学基礎論(以下、基礎論と呼びます)という分野をご存知でしょうか。学問で「基礎」というと初歩的(かつ重要)な内容に聞こえますが、基礎論は初歩的とはいえない分野かもしれません。新井敏康先生によれば、数学基礎論は「数学についての数学」という批判的な問題意識から生まれました1。数学とはなにか、何をしているのか、「数学的に正しい」とはどういうことか、そして矛盾のない数学を構築するにはどうすればよいか、ということを考えるものです。科学哲学的な行為に見えますが、あくまで数学の立場から数学を確かめているようです。とはいえWikipediaで基礎論を研究した学者を調べると多くは「数学者・論理学者」のように紹介されているので微妙なところです。ただし、他の学問でもパラダイムみたいなものが大きく転回することはありますが、直接自分自身が何なのか議論し始めるのは、科学の中でも数学くらいしかない気がします。そんな数学が好きなのです。好きであることに気づくための前提として、大学の哲学の講義に(初めの2,3回だけ)出て科学哲学に触れたことがありました。

数学と自然科学の違いを理解するとき、よく「定理は覆らない」と説明したりします。物理学や化学の「法則」のように自然界の現象を観察してわかったいくつかの事実を一般化した事柄を、宇宙が始まってから終わるまで、どの時点のどんな場所でも成立すると断言することはできません。なぜならそれをするためには全ての場合について実際に検証しなければならないからです。ただ一般的な事柄によって既知の事実と新事実を説明する、つまり矛盾しないことを確かめるだけで、すべての確証を実現した(と認められた)人はいません。ですからいつかその法則の例外が発見され、新たな理論が提唱されたりして覆るわけです。一方、数学にはまず、公理という誰にも反証されない決まり事があります。それは常に真であると認めたのです。そこから論理によってのみ新たな事実=定理を導き出すので、公理を認める限り定理は覆らないのです。

しかしそこである疑問が生まれるわけです。「論理によってのみ」とはどういうことなのか、そもそも「論理的に正しい」とは何のことなのか、結論が「証明可能」ならそれは「正しい」のか。つまり、公理や証明したい結論の内容の外に出てメタな視点で数学を考えてみたくなるのです。基礎論はまず、誰もが納得のいく考え方を導入して論理というものを明確にしました。その考え方とは、証明は単なる機械的な計算による記号処理である、というものでした。証明の仮定(既知の事実)は単なる文字列にすぎないのです。そこから特定の規則によって文字列を置き換えていくことが推論であり、ついに結論と同じ文字列に辿り着くまでの過程が証明なのです。離散数学の問題を解くときは機械的に証明を書き下していったので、この考え方を知ってスッキリしたというか、とても共感しました。

おわりに

なんだかまとまりが無いですが、時間の都合もありここでおしまいにします。ありがとうございました。明日の担当はalitaso345さんです。

  1. 新井敏康『数学基礎論』, 岩波書店, 2011年 http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0055360/top.html